「神の救い」については100%一方的に神様からいただくものなので人間の努力が救いの条件ということでは一切ありません。そっち系(どっち系じゃ笑)の話ではないので。そこのところは最初に断っておきます。じゃあ、人間は何もしなくていいのか、何も求めなくていいのか。人間は無力なので何したって意味ないのじゃないか。
あるところで、私は「人は人を救えない。人には期待していない。」と言ったことがあります。ちょっとびっくりされた気がしました。本当に尊い、素晴らしい働きをしている人はたくさんいて、それはクリスチャンとかクリスチャンでないとか関係なくいらっしゃいます。それを否定しているのではないのです。尊敬していて憧れるし、できることは協力したいです。一縷の望みをそこに持つしかないなとも思っています。ただ、人間の行く着くところは絶望しかないと思っています。人間には取り返しがつかないから。人間が人間を救うことはできない。できるのは神様だけ。
今の時代には聖書の時代のような奇跡は基本起こらないと思っている。でも、ときに、奇跡を求めることはある。だって、神様にできないことはないのだから。いや、今の時代、そういう示され方ではないのだよね、と、思いつつ、いや、わからない、とも思う。母の病気とか、祈って治るわけじゃなし。じゃあ、どうするの。ひたすら平安を祈るのか。そもそも平安って何?私は諦めたくないので執拗に求めるタイプだが限界はある。
私は離婚しているからかもしれないですが、幸せな結婚…などの学び、それはとても大切だと思いますが、信仰の継承についても、学びも祈りも努力も本当に大事なんだけれど、でも、それも神様からの一方的な恵みだと思っていて、恵みを受けた人は感謝して生きたらいいし、そうでない人…ここで、いつも思うのですよね、そうじゃない人(失敗?した人)が恵みを受けていないのか、と。「私は家族に恵まれて、健康に恵まれて」とかすぐ言っちゃうのですが、そうじゃない人は恵まれていないのか。考え出すと、今度は何も言えなくなってしまい。でも(でも…ばかり笑)、私は恵まれていると本当に思います。
今日は難しくて、本当に取り留めなく。あともう一日。
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藤掛明先生から学んで、私の心に留まっている言葉を「藤掛先生語録」としてまとめ、1ヵ月間の日めくりカレンダーにしました。コラージュや短歌や文章は私の連想に過ぎませんが楽しんでいただけるとうれしいです。
※写真はAC・Pixabay・unsplash素材より。