
儀式に関して最近考えたことは「葬儀」について。父が3月に亡くなって身近になった。生前からの相談で、亡くなった知らせと葬儀の案内は親族と所属教会のみなさんだけにした。いつの頃からか家族葬が多くなり、それは昔の、近所付き合いや仕事付き合いなど、人間関係の渦で意味なく盛大になってしまうことへの反動かなとも思ったり。コロナ禍で人が集まれない、集まっちゃいけないふうになって拍車がかかった気がする。私もここ数年は葬儀に参列できないままの人が何人かいて、いつの間にかいなくなった、まだどこかにいるような、区切りがつかないままになっている気がする。当初父はきょうだいにも知らせないと言っていて、それは逆の立場になるとかえって辛いのじゃないかと私は言った。実際、きょうだいは高齢で多くは来ることができなかったが、甥姪(私の従兄妹)はけっこう集まってくれて、私には慰めになりました。亡くなった人の事情、遺族を取り巻く状況によって必要は本当に違うので何が良いとか悪いとかではありません。
2ヵ月くらいしてから、父と連絡の取れないのを心配した複数の方から問い合わせが来るようになった。中には家まで訪ねてくれた人も。そして、亡くなったことを伝えると悲しんでくれて「お墓参りに行かせてほしい」と言う。歌手の八代亜紀さんが亡くなってしばらくしてから「お別れの会」があり、それに参加した芸能人の何人かが「これで心の整理ができました。やっとお別れができました。」とインタビューに答えていたのを思う。残された人としてはちゃんとお別れしたいよね、その気持ちはとてもわかる。クリスチャンとしてお墓「参り」されては困るし、いちいち「拝まないでください」と説明するのも大変なので、父の納骨式に葬儀の案内をしなかった人たちに来てもらうことにした。主に父の仕事関係の方たち。仕事関係と言ってもそれを超えて本当に良い交流を持っていた人たちです。ここで、以前から思っていたことですが、誰が誰と本当に親しいのかは他人にはわからないということです。仲良しさんに見えても心では双方そう思ってないこともある。逆もあって、人目には交流しているように見えていなくても実は深いところで繋がっていることがある。片方だけが思っていることだってある。
今だから言うが、実は父が亡くなった日に娘はコロナを発症した。通常の流れでいくと葬儀に娘は出られなかったのですが、たまたま火葬場が混んで葬儀の日が遅くなったため娘はおじいちゃんの葬儀に参列することができたのです。心から感謝でした。葬儀そのものでなくても「納棺式」「納骨式」「記念会」なども心のために用いられると思います。
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藤掛明先生(クリスチャン臨床心理士)から学んで、私の心に留まっている言葉を「藤掛先生語録」としてまとめ、1ヵ月間の日めくりカレンダーにしました。コラージュや短歌や文章は私の連想に過ぎませんが楽しんでいただけるとうれしいです。
※写真は、AC素材とPixabay素材から使用しています。